恋愛についての走り書き
生きることは孤独で虚無だ。どう足掻いても。
何をなしてもいずれ死ぬし(今のところ......四半世紀もしないうちにテクノロジーが何か画期的な死なない方法を見出すかもしれないが......しかし、もしも死がなくなったら生は生たりうるのか?二項対立が崩れて死も生も無くなるのかもしれないし、対立せずとも奴らは存在し続けるかもしれない。概念の上で。)、どんなに言葉を尽くしても思いが100%伝わることはない(し、どれくらい伝わっているのか確認する術はない。例えば君の恋人への好きが恋人の君への好きと同じ(程度、種類)である保証などどこにもないのだ)。
孤独や虚無、心のあな、退屈、を忘れる埋める変えるぶち壊すための刺激を私たちは(と、大きく括ってみるが責任は持たない)常に求めている。
そんな刺激の一種としても恋愛は挙げられるだろう。
極論、愛は相手の存在そのものへ向けられるものだと私は思う。
あの人が幸せでいてくれたらそれでいいと思えるのならそれは愛だと思う。
(だがそれは恋愛ともっとも遠い状態に近い気すらする)
ただ、孤独や心を蝕む虚無感を忘れるための熱狂する矛先として恋人がいるのなら、私はそれは愛だとは思いたくない。少なくとも相手の存在そのものに対しての愛ではないように思う。
熱狂する先、いわば依存先でしかないのなら、それは愛ではないような。
恋に恋するというか、恋愛状態にあることに価値を見出しているというか......相手そのものに依存しているというタイプのもあるから難しいな(しかし、つまるところ都合がいいというだけなのでは。そうであればそれは「その人がその人であるから好き」ではないのだな)。
しっかり理論立てて説明できないので今日は走り書きでストップである。
人人人、人間人間人間、意識意識意識 新宿西口地下にて
新宿西口の地下はいつも息苦しい。涙さえうかぶほどに。
無数に蠢く人と人と人と人と人。
みんな何かに引っ張られるように、まっすぐ一点、前だけ見つめて歩く。
あるいは誰かと一緒に会話をしながら。
自分と仲間たちだけが世界のような雰囲気を身に纏って。
エスカレーターの乗り口で立ち止まって、流れが乱れた瞬間だけ、その人たちの世界は広がる。結界は破られる。
人々は、マグロや同程度の魚たちのように広い地下空間を自由自在に突っ切って、進行方向に誰かがいても気にせず直進する。
誰かのことなど見えておらず、そのさきの目的地だけしか見えていないかのような振る舞いだ。
ふと立ち止まってあたりを見渡すことはまるで許されていないような雰囲気。
移動の波に乗らなくてはならない、という圧力。
そんな人波、人混みを構成する人たちが、おそらくは私と同じように意識を持ち自我を持っているということが不意に恐ろしくなる。
肉で閉じられ、服で着飾ったその中に、私と同じような意識がいて、それがそんな雰囲気を微塵も見せずに直進してくる。
帰宅ラッシュに人波と逆方向に歩く時など最悪だ。
押し寄せる意識と人間の質量に押し流されそうになる。
私が繊細だからなのだろうか?
いや、あの光景には恐怖しないではいられないだろう。
それが毎日、毎日、毎日繰り返されているなんて。
タイミングを逃した雑記、三月の遺産:就活が始まった/SNSのきらきらにあてられること
3月も半ば。私のもとには2年前に回避した就職活動がまたやってきて、じりじりと人生について考えさせられている。
喉元過ぎれば熱さ忘れる性格なので、今年度(書いた時点はまだ2018年度)もインターンシップやらそういったものには目もくれずに1年を過ごしてしまった。仕方あるまい。
先日、とある会社の説明会に行った。
説明会に向かうため電車に乗ると、車両には一面同じような広告が吊るされていた。
そのどれもが「ひとりで抱え込まないで」だとか、そういった文章にあふれていた。
三月は自殺対策強化月間らしい。生きる支援強化月間でもあるらしい。
素晴らしいことだ。
しかし、想像する。
自分に何か辛いことがあって、視野が狭まっている時にそういう制度があるのはありがたいと思う。それと同時に、そういう制度を使うところまで追い詰められている自分が、社会の中で正常じゃないぞ突き付けられる感覚が、自分の情けなさに拍車をかけそうだとも思う。でも何か特定の原因がある場合は、その自分を情けなくした責任をそれに押し付けられるので、そこまで苦しく無いかもしれない。
何か特定の出来事に追い詰められている場合、相談は有効だろう。
だが、生きることそのものに漠然と辛さや寂しさ、悲しさを覚えている場合は?
車内で見たメッセージの奥には、生きることは喜びであると、寂しさや悲しさはあまりよくないものだと、そんなニュアンスが透けて見えた。
もちろんこれはわたしの個人的で主観的な感想だ。
喜怒哀楽は4つ並んでいるのに、社会で求められる感情のバランスは喜25%怒25%哀25%楽25%では無いように思う。
喜や楽に大きく偏ったものが求められ、怒りや悲しみは負の感情ともいうように、ネガティブなイメージであまり公にすべきで無いような雰囲気を感じる。
SNSには華やかな投稿がなされ(あるいはそういったものに多くの評価が付き)、怒りや憤りも不条理なものでなくて「正しい怒り」だけが市民権を得ているんじゃなかろうか。(もう少し考える余地があるが。)
そんな環境に身を置いていたら(地上のだいたいどこでもネットが繋がり、SNSは常につきまとう)、ろくに向きあわないうちに自身の負の感情を、悪いものだと蓋をしてしまうようになるんじゃないかとふと不安になるのだ。
「良い」面だけを見せようとして、そのうち「悪い」面を誰にも見せられなくなってしまい、自分ですらきちんと見ることができなくなったら?
その時、心は健康だと言えるのだろうか 。
4/5加筆
幼い頃見た桜の色は今より濃かった気がする
桜の季節だ。
家の近くの道端のソメイヨシノも凡そ満開になっていて、風が吹くと白に近い薄紅色の花弁がはらはらとふってくる。
私は、私が子供だった時に比べて桜の色が薄くなっている気がしている。
数年前、大学生になって何度目かの春に、あれ?桜の色ってこんなに白っぽかったっけ?と思ったのである。
そこで、どうやら桜の色は私が思っているより淡いらしい事に改めて気がついた。
でも、昔はもっと濃かった気がするんだけど。
そう感じる理由を少し考えてみる。
しばし前、インターネットかどこかで見た記事に、幼い頃の方が色が鮮やかに見えると書いてあった。生きていくうちに、光で目が少しづついたんで(濁って?経年劣化というやつだ)色はほんの少しづつ鮮やかさを失っていくらしい。
真偽のほどはよくわからないが、なるほどそうかもなぁと思う。
目が劣化していくかどうかは置いておいても、幼い頃は何もかもが新鮮で活き活きとして見えるのは確かだから、桜の色に見慣れてしまって鮮やかに見えにくくなったというのはあり得る話だ。
また別の方向から考えてみる。
私は桜のイメージを八重桜の濃い色とソメイヨシノの淡い色が混ざった状態で持っているのでは、ということだ。桜も種類が違えば色が違う。それだけの話だが、桜と一つにまとめて色のイメージを持っているせいでソメイヨシノを見ると、白い!と思ってしまうのかもしれない。
これもイメージの問題だが、普段イラストや加工された写真で鮮やかな桜色で描かれる桜の花に見慣れてしまっているからという理由かもしれない。(絵文字の桜も濃い色だ)
そして普段の生活で、桜がらみでなくとも濃い色に見慣れてしまったために薄く感じているのかもしれない。
もちろん、本当に年々桜の花の色が薄くなっている可能性もなくはない。(可能性は低いが調べていないからなんとも言えない)
何れにせよ桜(ソメイヨシノ)の花の色は私の脳内ソメイヨシノの色より淡いのだ。
それは悪いことでも悲しいことでもない。
日が暮れて薄暗い中で浮かび上がる桜の花の美しさは、幼い頃は気がつかなかったように思う。
ソメイヨシノの花弁がくるくる回りながら、まさに舞い落ちる様はやはり美しい。
クローン桜・ソメイヨシノの花盛りはもうあと僅かだ。
一斉に散る様が美しいとは私は思わないが、やわらかで薄い花弁、指で触ると少しひっついて引っかかる感覚、淡い香り、目立たない薄紅色を味わえるのは今しかない。
来週は早起きして花見に行こうと思う。
時の流れに目眩する
新元号が発表され、年度が切り替わった。
この土日、研究が忙しく、ほとんど外出できていなかったので久しぶりに外出(散歩)をした。
気がづけば桜は満開で、街は新生活の匂いと令和フィーバーの雰囲気が充満していた。
だが、私の生活にはさしたる変化はない。
ただ研究室にいつもいた何人かはすっかりいなくなり、持ち物の一切も残さず、人生の次のフェーズに移行してしまった。
今は空白が残っているが、そこもすぐに埋まることだろう。
帰り道の坂で信号を待つ間、強い向かい風に吹かれ続け、それが時の流れのように感じた。ドラえもんのタイムライトを使ったか如くの感覚だった。
どこにいても、何をしていても、時は流れている。記憶やその瞬間の感覚は波にさらわれ、押し流され続けている。
忙しく仕事をこなす時もくつろいでいる時も、いついかなる時も時の波から逃れられない。おそろしいことだ。
波にさらわれ続けるのは体力が必要だ。
時の波も同様なのではないか、という気がした。
時間に放っておかれたい。