タイミングを逃した雑記、三月の遺産:就活が始まった/SNSのきらきらにあてられること

3月も半ば。私のもとには2年前に回避した就職活動がまたやってきて、じりじりと人生について考えさせられている。

喉元過ぎれば熱さ忘れる性格なので、今年度(書いた時点はまだ2018年度)もインターンシップやらそういったものには目もくれずに1年を過ごしてしまった。仕方あるまい。

 

先日、とある会社の説明会に行った。

説明会に向かうため電車に乗ると、車両には一面同じような広告が吊るされていた。

そのどれもが「ひとりで抱え込まないで」だとか、そういった文章にあふれていた。

三月は自殺対策強化月間らしい。生きる支援強化月間でもあるらしい。

素晴らしいことだ。

 

しかし、想像する。

自分に何か辛いことがあって、視野が狭まっている時にそういう制度があるのはありがたいと思う。それと同時に、そういう制度を使うところまで追い詰められている自分が、社会の中で正常じゃないぞ突き付けられる感覚が、自分の情けなさに拍車をかけそうだとも思う。でも何か特定の原因がある場合は、その自分を情けなくした責任をそれに押し付けられるので、そこまで苦しく無いかもしれない。

何か特定の出来事に追い詰められている場合、相談は有効だろう。

だが、生きることそのものに漠然と辛さや寂しさ、悲しさを覚えている場合は?

 

車内で見たメッセージの奥には、生きることは喜びであると、寂しさや悲しさはあまりよくないものだと、そんなニュアンスが透けて見えた。

もちろんこれはわたしの個人的で主観的な感想だ。

 

 

喜怒哀楽は4つ並んでいるのに、社会で求められる感情のバランスは喜25%怒25%哀25%楽25%では無いように思う。

喜や楽に大きく偏ったものが求められ、怒りや悲しみは負の感情ともいうように、ネガティブなイメージであまり公にすべきで無いような雰囲気を感じる。

SNSには華やかな投稿がなされ(あるいはそういったものに多くの評価が付き)、怒りや憤りも不条理なものでなくて「正しい怒り」だけが市民権を得ているんじゃなかろうか。(もう少し考える余地があるが。)

 

そんな環境に身を置いていたら(地上のだいたいどこでもネットが繋がり、SNSは常につきまとう)、ろくに向きあわないうちに自身の負の感情を、悪いものだと蓋をしてしまうようになるんじゃないかとふと不安になるのだ。

 

「良い」面だけを見せようとして、そのうち「悪い」面を誰にも見せられなくなってしまい、自分ですらきちんと見ることができなくなったら?

 その時、心は健康だと言えるのだろうか 。

 

4/5加筆