雑記:50音の外側へ

久々にブログを更新する。

最近はPC(液晶画面)から距離を置くべく、しばらく手書きの日誌をつけていたのでそれで満足して更新が滞っていた。

コンスタントに...とはいかないかもしれないが(気分屋なので)、これからもブログは書いていきたいし、気が向いたので更新する。

 

最近、私は50音にない音を発声する遊びに凝っている。

明確に「あ」や「ふ」や「ら」などじゃない音を出すのだ。

発言を文字に起こす時、発音が甘く、多少曖昧でも大概の音は文字があてがわれてしまうが、それが困難な音を意図して出す遊びだ。

細かな発音記号まで熟知している人にかかれば、この「50音外の音」もなんらかの記号で表されてしまうのかもしれないが、私はそれを知らないので問題ない。

 

なぜそんな遊びをしているのか。

そもそも、言葉や50音が成立する前から声は存在していた。動物たちの鳴き声のように。コミュニケーションが発達していく中で、音や音の連なりは意味を持つようになっていった。

それはコミュニケーションを円滑かつ精密取れるようにしていったが、その反面、音は意味に縛られるようになっていった。

普段、意味を持つ言葉を作るために用いられる音たちを適当に発声しても、時にそれは勝手に意味を持ってしまう。あるいは、「意味を持つように繋ぐもの」というルールが本当はどこまでも自由な音のつながりを奪ってしまう。声を出す前に「自由に声を出すこと」について考えてしまう。様式化された声の出し方をしてしまう「あーーー!!!!!!」とか。

それらを手っ取り早く回避して、声を出すことただそれだけの純粋な楽しさ、声を出すという行為そのものが行為の目的で意味、という状況に立ち返るための方法としての50音外遊びなのだ。

 

初めて弦をはじいた日、初めてピアノを弾いた時の、音が出ることが楽しい!という感覚。あれをお手軽に何度でも繰り返し味わうための遊びなのだ。

 

書けない音でおしまい!