自然と「機械の美学」は対立しない コルビュジェ展の感想
今日はコルビュジェ展に行った。
国立西洋美術館でやっている、『ル・コルビュジェ 絵画から建築へーピュリスムの時代』だ。
前置き
コルビュジェは近代建築三大巨匠のうちの一人だ。
国立西洋美術館がその他のコルビュジェ作品と共に世界遺産に登録されたこともあり、建築を専門としない人々の間でも知名度は高いんじゃなかろうか。
ミース・ファンデルローエよりは絶対知られている気がする。
フランク・ロイド・ライトとは...どうだろう?どっこいぐらいかな。
(ミースはそもそも日本に作品がないので他のふたりよりも日本じゃ不利なのだ。作品のスタイルもぱっと見、現代じゃ当たり前みたいなのが多いのも知名度が低い理由な気もする。もちろん、だからこそすごいのだし、ミースの作品は細部への配慮や繊細さが素晴らしいのだと思っている)
まぁそうした建築家論・作品論みたいなものは、ごまんとやられているし、私よりずっと詳しい人々が色々やっているので深入りはせずにいく。
(でも、すごく端折ると話したい部分に繋がらないから今回は解説気味に行こう。美術館で学んだ知識を武器にして。 )
ピュリスム(純粋主義)とは?ーキュビスムとの関係性
ピュリスム(純粋主義)とは、オザンファンとジャンヌレ(コルビュジェの本名の苗字)がメインでやっていた絵画運動のことだ。
ぱっと見はキュビスムに似ているけれど違う。
キュビスムはおなじみのパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックらがやっていた絵画運動で、ざっくり言えば絵の描き方の一種だ。メインの考えとしては、物体を様々な面から見てそれを表現するというかんじ。3Dを2Dに落とし込むような考え方だ。
だからなんだか展開図みたいな雰囲気がある。
(私はキュビスムの思考法を知った時えらく感動した。絵画の裏にもそんな思考があるのか!ととても嬉しい気持ちになって、それ以来キュビスムは好きだ。よくわかんないけど。さらにキュビスムから辿るとセザンヌに行き着いてこれもまた面白い。どんなに独創的に見えても完全に新しいものなどないー全く現在と繋がりのない未来は想像できるか?というとても楽しい題目に行き着くがそれはまたいつか)
で、ピュリスムがキュビスムとどう違うのかと言うと、ピュリスムはより機能的で意思(主観)の介在を認めないという感じだった。
オザンファンとジャンヌレは1918年に『キュビスム以降』というマニュフェストを発表した。その中で彼らは「キュビスムは主観的だ!」と主張したのである。
だから、ピュリスムでは画面内の物の配置(構成)に黄金比を用いたり、規整線(トラセ・レギュラトゥール)という方法を用いた。「なんとなくここに置くといい感じだ」とかじゃなくて理論によって画面構成を行ったのだ。なるほど理論的。
因みに、展覧会では特に触れられていなかったけれど、日常品を描いた静物画が多かったのも主観的にならない工夫だったのではないかと私は思った。(絵を描くために何か御誂え向きの対象を用意して...とやればそれもなんだか主観的だ。)
もっとも、キュビスムも似たような物を描いていることが多かったから(楽器、コップなど...)その影響かもしれない。
でもその後、ふたりはキュビスムの絵画や人々に沢山触れて、ピュリスムの基本構想とキュビスムの基本構想は一緒だし、自分たちがピュリスムでなそうとしたことがすでにキュビズムで試みられているということに気がつく。
それで、キュビスムに対しては批判的立場ではなくなった。
ピュリスムの最初はキュビスムは主観的だ!と言っていたのが、一転した。
このエピソードはかなり面白い。
これは完全に私の想像だが、おそらくふたりはキュビスムが複雑すぎてよくわかんなかったんじゃないかな。
私がキュビスムの絵画たちを見ていて思うこととして、キュビスムはわかりやすい作品もあるけれど、よくわからない物も少なくない。
なんにせよ、技術が上がることでより複雑になって明快さが失われていった部分は幾らかあるだろう。(もちろんその複雑さもまた魅力になっている)
これは次の項目で少し触れる。
余談だが、ピュリスム・キュビスムの人たちはコンピューター・グラフィックスが好きだと思う。特に、コンピューター・グラフィックスのべたっとした塗りやスマートなグラデーション(あるいは胡散臭いグラデーションの立体表現)はピュリスムとても相性がいいと思う。
誰かやってないのかなヴァーチャル・キュビスムとか銘打って。
ピュリスム以降ー自然と「機械の美学」は対立しない
そんなこんななピュリスムも終わりが来る。ジャンヌレとオザンファンとの間にすれ違いが生じて、ピュリスムの活動は1925年に終わってしまう。どんなものでも終わりは来るのだ。
さて、ジャンヌレ改めコルビュジェ(1928年以降はコルビュジェという名前で活動している)は、ピュリスムが終わったからといって絵を描かなくなったわけではなかった。
建築家として活動する日々の中でも、毎日午前中はアトリエでスケッチをしたり絵を描いていたらしい。すごいエネルギーだ。
そんなコルビュジェのピュリスム以降の絵画では、物の配置はもう少し自由になっていて、牡蠣とか三半規管みたいなやつとか、それまでになかったようなモチーフが出てくる。でも全体の雰囲気はピュリスム時代のものと似ている。解説によれば、それはピュリスムの否定ではなく、ピュリスムの拡大なのだそうだ。
コルビュジェは「機械の美学」を愛した建築家だった。彼が提唱した都市計画(ヴォワザン計画とか輝く都市)なんかを見ると、実に整然としていて美しい。機能的で幾何学的だ。
機械の美学を愛しながら、自然を取り入れるというのは一見不思議ではあるが、少し考えるととても腑に落ちる。機械と言われると人工物のことを想像しがちだが、システマティックであるという点で見れば自然も人体もそうである。そう捉えれば、機械と自然は似ているのだ。
そして、コルビュジェのこの頃の絵のわかりにくさは、キュビスムのわかりにくさに通じていると私は思う。そしてその両者に共通するわかりにくさこそ「自然」と通じる部分なのかもしれないと私は感じた。
自然には規則やルールがあり、かなり規則的に物事が動いているらしいのは体感的にも知識的にも多くの人が知っていると思う。そしてそうしたルールを読みとくのが自然科学なわけだ。
しかし、今以って未解明なことはたくさんある。身体をはじめとする自然たちは、独自のシステムやルールを持ち動いているが、人間はよくわかっていない。あるいは説明しきれていない。わかっていないが生きている。
道端の植え込みに茂る葉も無秩序で複雑に見えて、裏には緻密なルールが潜んでいるのだ。
難解キュビスムもそうで、ぱっと見ルールがあるとは思えない構成だが、見えない裏には緻密な思考がある。コルビュジェの絵もそうだ。
そう考えると、これらの絵は「自然」と近くないだろうか。
もっともそんな風に考えると、ありとあらゆるものが「自然」と結び付けられてしまうのだけれど。自由意志がないとしたらね。
その辺はまた今度だ。