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解説(あるいは御託)

最近意味について考えています。

このわけのわからぬ記事は以下の理由のようなものからなされたテスト・テキストです。

1:言葉は表している意味(対象)と文字と、音とに分けられる。そして、とある言葉が示している対象とその音、その文字(図)の間には、必然的な繋がりはない。苺(甘くておいしい初春の果実)と「苺」、「ichigo(音)」の間に、必ずそのような音・あるいは図(文字)で表される必要があり、そうでしかいられなかったという結びつきはないと思われる。

2:人に伝えるということを目的としなければ、楽しいという気持ちを「sjkファv」と綴ることは可能である。この「人」は、他者および、今この時以外の私も含める。今この時以外の私にも伝えたい場合(多くの場合は未来の私だ)、「sjkファv」がいかなる意味を持つのかを記した何らかのもの、あるいは記憶が必要になる。

3:全ての記事が全く読めず、解釈困難な文字的な図、あるいは図列によって構成されていて、しかし何らかの意思疎通を計ろうとしている様が読み取れるブログがあったら、それはかなり面白いのではないか?という思いつき。

4:意味を示すという役目を失った文字は図や絵のように見え、文字と呼ばれる線による構成の美が感じられるのではないかと思ったため。これについては、同じ文字を見続ける事によるゲシュタルト崩壊の方が近そうな感覚。

5:今回はまだ思いつきだったので、まさに適当にキーボードを叩いただけだが、今後何がしかのルールを組み、またこういった記事に挑戦したい。そしてこれは勘だが、そのようなことをしていると、新言語作成ごっこのようになっていくのではないか?

6:今回はアルファベットのみにして行なったが、羅列に意味があるかどうかという違いはあれど、ソースコードなどで見慣れているからか、はたまた、日常みる文字列と遠いからか、いまいち迫ってこない。ひらがな、カタカナ、漢字、alphabet混合の方が良いと思われる。また、「、」「。」読点や句点を混ぜると、意味の句切れのように錯覚させやすいのではないか、と思った。今後に活かしましょう。

 

 

 

雑記:50音の外側へ

久々にブログを更新する。

最近はPC(液晶画面)から距離を置くべく、しばらく手書きの日誌をつけていたのでそれで満足して更新が滞っていた。

コンスタントに...とはいかないかもしれないが(気分屋なので)、これからもブログは書いていきたいし、気が向いたので更新する。

 

最近、私は50音にない音を発声する遊びに凝っている。

明確に「あ」や「ふ」や「ら」などじゃない音を出すのだ。

発言を文字に起こす時、発音が甘く、多少曖昧でも大概の音は文字があてがわれてしまうが、それが困難な音を意図して出す遊びだ。

細かな発音記号まで熟知している人にかかれば、この「50音外の音」もなんらかの記号で表されてしまうのかもしれないが、私はそれを知らないので問題ない。

 

なぜそんな遊びをしているのか。

そもそも、言葉や50音が成立する前から声は存在していた。動物たちの鳴き声のように。コミュニケーションが発達していく中で、音や音の連なりは意味を持つようになっていった。

それはコミュニケーションを円滑かつ精密取れるようにしていったが、その反面、音は意味に縛られるようになっていった。

普段、意味を持つ言葉を作るために用いられる音たちを適当に発声しても、時にそれは勝手に意味を持ってしまう。あるいは、「意味を持つように繋ぐもの」というルールが本当はどこまでも自由な音のつながりを奪ってしまう。声を出す前に「自由に声を出すこと」について考えてしまう。様式化された声の出し方をしてしまう「あーーー!!!!!!」とか。

それらを手っ取り早く回避して、声を出すことただそれだけの純粋な楽しさ、声を出すという行為そのものが行為の目的で意味、という状況に立ち返るための方法としての50音外遊びなのだ。

 

初めて弦をはじいた日、初めてピアノを弾いた時の、音が出ることが楽しい!という感覚。あれをお手軽に何度でも繰り返し味わうための遊びなのだ。

 

書けない音でおしまい!

 

 

 

 

 

 

 

 

雑記-主客一致に関して 2019/6/5

 

研究が進まない。

というか、進んでいるんだか進んでいないんだかよくわかっていない。

すっかり迷走しているのだが、悪くない気分だ。

最終的には形にしなければならないけど、まだ時間の余裕はあるし、泥沼的思考の中で足掻くのは嫌いではない。

 

進まない理由は明らかで、主客の一致を疑ってしまったからである。

どういうことかというと、私たちは何かを見たり考えたりするが、それは主観を通して行う。言い換えれば、主観を介さずに見たり考えたりはできない。見る、考えるをはじめとする動詞にはそもそも動作主体の存在が内包されている。

つまり、完全な客観など存在しない。

客観も当事者ではない第三者の主観である。(余談その1:しかも第三者的目線ということで、もはや当事者の空想上の客観なことすらある!

余談その2:だからこそ「客」であり、「神」ではないのだななどと思うわけだが)

なんだったら、客観的意見も「私」が訊いた時点で「私」の主観を通ってしまう。

 

...なんてことを考えていたら、あれ?じゃあなんで学問って成立してるんだ?なんて所に行き着いてしまったのだ。(言語もなんで成立しているんだ?ってなった)

そんなこんなで哲学書(ライトなやつ)を読んだり意味論を勉強してみたり、調べたりしている。

その結果としてどうやらこの手の疑問は現象学の範疇にあるらしいことは突き止めた。

言語についてはポストソシュールが参考になるっぽいことを友人に教えてもらった。

 

そして、学問においては、「主客の一致は前提となっている」らしいことも知った。

(とはいえネット上でちらっと見ただけだから、きちんとした出典を見つける必要がある)

 

色々と調べて考えていくと、人間がわかっていないことは結構あるし、科学のような学問も人間の視点で作られたものだから実のところ有用な仮説だなんて思う。

原初に想いを馳せれば、学問を打ち立てる前から世界は存在していたのだし、人間がうまれる前から世界は存在していたのだし、当然といえば当然なのだが。

日々莫大な情報に晒され続けると、こういう謙虚さを失ってしまいそうだ。

有用さは目くらましにもなるな、なんてことを思うのだった。

 

おしまい

 

 

 

自然と「機械の美学」は対立しない コルビュジェ展の感想

今日はコルビュジェ展に行った。

国立西洋美術館でやっている、『ル・コルビュジェ 絵画から建築へーピュリスムの時代』だ。

前置き

コルビュジェは近代建築三大巨匠のうちの一人だ。

国立西洋美術館がその他のコルビュジェ作品と共に世界遺産に登録されたこともあり、建築を専門としない人々の間でも知名度は高いんじゃなかろうか。

ミース・ファンデルローエよりは絶対知られている気がする。

フランク・ロイド・ライトとは...どうだろう?どっこいぐらいかな。

(ミースはそもそも日本に作品がないので他のふたりよりも日本じゃ不利なのだ。作品のスタイルもぱっと見、現代じゃ当たり前みたいなのが多いのも知名度が低い理由な気もする。もちろん、だからこそすごいのだし、ミースの作品は細部への配慮や繊細さが素晴らしいのだと思っている)

 

まぁそうした建築家論・作品論みたいなものは、ごまんとやられているし、私よりずっと詳しい人々が色々やっているので深入りはせずにいく。

 

(でも、すごく端折ると話したい部分に繋がらないから今回は解説気味に行こう。美術館で学んだ知識を武器にして。 )

ピュリスム(純粋主義)とは?ーキュビスムとの関係性

ピュリスム(純粋主義)とは、オザンファンとジャンヌレ(コルビュジェの本名の苗字)がメインでやっていた絵画運動のことだ。

ぱっと見はキュビスムに似ているけれど違う。

キュビスムはおなじみのパブロ・ピカソジョルジュ・ブラックらがやっていた絵画運動で、ざっくり言えば絵の描き方の一種だ。メインの考えとしては、物体を様々な面から見てそれを表現するというかんじ。3Dを2Dに落とし込むような考え方だ。

だからなんだか展開図みたいな雰囲気がある。

(私はキュビスムの思考法を知った時えらく感動した。絵画の裏にもそんな思考があるのか!ととても嬉しい気持ちになって、それ以来キュビスムは好きだ。よくわかんないけど。さらにキュビスムから辿るとセザンヌに行き着いてこれもまた面白い。どんなに独創的に見えても完全に新しいものなどないー全く現在と繋がりのない未来は想像できるか?というとても楽しい題目に行き着くがそれはまたいつか)

で、ピュリスムキュビスムとどう違うのかと言うと、ピュリスムはより機能的で意思(主観)の介在を認めないという感じだった。

オザンファンとジャンヌレは1918年に『キュビスム以降』というマニュフェストを発表した。その中で彼らは「キュビスムは主観的だ!」と主張したのである。

だから、ピュリスムでは画面内の物の配置(構成)に黄金比を用いたり、規整線(トラセ・レギュラトゥール)という方法を用いた。「なんとなくここに置くといい感じだ」とかじゃなくて理論によって画面構成を行ったのだ。なるほど理論的。

 

因みに、展覧会では特に触れられていなかったけれど、日常品を描いた静物画が多かったのも主観的にならない工夫だったのではないかと私は思った。(絵を描くために何か御誂え向きの対象を用意して...とやればそれもなんだか主観的だ。)

もっとも、キュビスムも似たような物を描いていることが多かったから(楽器、コップなど...)その影響かもしれない。

 

でもその後、ふたりはキュビスムの絵画や人々に沢山触れて、ピュリスムの基本構想とキュビスムの基本構想は一緒だし、自分たちがピュリスムでなそうとしたことがすでにキュビズムで試みられているということに気がつく。

それで、キュビスムに対しては批判的立場ではなくなった。

ピュリスムの最初はキュビスムは主観的だ!と言っていたのが、一転した。

このエピソードはかなり面白い。

これは完全に私の想像だが、おそらくふたりはキュビスムが複雑すぎてよくわかんなかったんじゃないかな。

私がキュビスムの絵画たちを見ていて思うこととして、キュビスムはわかりやすい作品もあるけれど、よくわからない物も少なくない。

なんにせよ、技術が上がることでより複雑になって明快さが失われていった部分は幾らかあるだろう。(もちろんその複雑さもまた魅力になっている)

これは次の項目で少し触れる。

 

余談だが、ピュリスムキュビスムの人たちはコンピューター・グラフィックスが好きだと思う。特に、コンピューター・グラフィックスのべたっとした塗りやスマートなグラデーション(あるいは胡散臭いグラデーションの立体表現)はピュリスムとても相性がいいと思う。

誰かやってないのかなヴァーチャル・キュビスムとか銘打って。

ピュリスム以降ー自然と「機械の美学」は対立しない

そんなこんななピュリスムも終わりが来る。ジャンヌレとオザンファンとの間にすれ違いが生じて、ピュリスムの活動は1925年に終わってしまう。どんなものでも終わりは来るのだ。

さて、ジャンヌレ改めコルビュジェ(1928年以降はコルビュジェという名前で活動している)は、ピュリスムが終わったからといって絵を描かなくなったわけではなかった。

建築家として活動する日々の中でも、毎日午前中はアトリエでスケッチをしたり絵を描いていたらしい。すごいエネルギーだ。

 

そんなコルビュジェピュリスム以降の絵画では、物の配置はもう少し自由になっていて、牡蠣とか三半規管みたいなやつとか、それまでになかったようなモチーフが出てくる。でも全体の雰囲気はピュリスム時代のものと似ている。解説によれば、それはピュリスムの否定ではなく、ピュリスムの拡大なのだそうだ。

コルビュジェは「機械の美学」を愛した建築家だった。彼が提唱した都市計画(ヴォワザン計画とか輝く都市)なんかを見ると、実に整然としていて美しい。機能的で幾何学的だ。

機械の美学を愛しながら、自然を取り入れるというのは一見不思議ではあるが、少し考えるととても腑に落ちる。機械と言われると人工物のことを想像しがちだが、システマティックであるという点で見れば自然も人体もそうである。そう捉えれば、機械と自然は似ているのだ。

そして、コルビュジェのこの頃の絵のわかりにくさは、キュビスムのわかりにくさに通じていると私は思う。そしてその両者に共通するわかりにくさこそ「自然」と通じる部分なのかもしれないと私は感じた。

自然には規則やルールがあり、かなり規則的に物事が動いているらしいのは体感的にも知識的にも多くの人が知っていると思う。そしてそうしたルールを読みとくのが自然科学なわけだ。

しかし、今以って未解明なことはたくさんある。身体をはじめとする自然たちは、独自のシステムやルールを持ち動いているが、人間はよくわかっていない。あるいは説明しきれていない。わかっていないが生きている。

道端の植え込みに茂る葉も無秩序で複雑に見えて、裏には緻密なルールが潜んでいるのだ。

難解キュビスムもそうで、ぱっと見ルールがあるとは思えない構成だが、見えない裏には緻密な思考がある。コルビュジェの絵もそうだ。

そう考えると、これらの絵は「自然」と近くないだろうか。

 

もっともそんな風に考えると、ありとあらゆるものが「自然」と結び付けられてしまうのだけれど。自由意志がないとしたらね。

その辺はまた今度だ。

 

 

 

パラレルワールドはあると思うか? 

私はパラレルワールドは無いと思う。

こないだの散歩でそう判断をした。

そういう話を書く。

 (2019/5/20追記:パラレルワールドの有無はやっぱりわからない。

ただし、選択肢ごとに分岐するような在り方ではないだろう。

最後に追記する)

 

ゴールデンウィーク半ばの話だ。

普段から散歩はするのだが、その時は音や色について勉強をしていて、いつも以上に感性が外へ向かっていた。(普段はかなり内省的な散歩をする)

 

だから車の音を聞けば、ああ雑音だなと認識を新たにしてうきうきしていた。

(音には単一周波数の音である純音と、複数の周波数でできている複合音があり、後者の中に音程を持つ楽音と持たない雑音がある、ということを直前にテキストで読んだから...)

そんな調子で散歩する私の目を惹いたのは、青々とした緑(不思議な言葉!)だ。

5月といえば新緑の季節で、時候の挨拶にも使われるくらいに新緑の季節だ。

3月末から4月半ばまでの、センチメンタルな雰囲気(主にソメイヨシノのせい)からガラリと方向転換をして、夏の気配がしてくる。

アスファルトの焼ける匂いを思い出させるような深緑。

 

その緑色は葉緑素のおかげだ、というのは多くの人の知るところだろう。

で、私は葉の細胞に思いを馳せたのだ。

葉は無数の細胞から構成されている。もちろん樹も。ついでに私たちも。

それらの細胞の並びが違かったら?全く同じ細胞たちで構成されているけれど、とある一枚の葉を構成する細胞たちの並び順が違かったら?

私たちはそれを知覚することはないだろう。顕微鏡でも使わない限り。

でも今の世界とは違う世界ということになる。

庭の木の枝の葉の付く位置が1mm違かったら?それもまた別の世界じゃないか?

そう考えると世界の枝分かれはまさに無数。

ありとあらゆるものに関して微細なパラレルが存在してしまい、計算できない。

(数学の確率の話みたいだ。Cを使って計算するやつ。組み合わせだったかな)

 

普段、パラレルワールドというと、友達が別人になっているとか、いなくなっているとか、街が全く違う風景になっているとか、そういうのを思い浮かべがちだ。

(庭の木の枝の葉の付く位置が1mm違うだけのパラレルワールドの話はきっと退屈だ...少なくともパラレルワールドである、ということは物語の強みにならないだろう)

でもそれは人の視点だ。今と違う世界が分岐し続けるとしたら、その数はあまりにも膨大じゃないか?ただし、ほとんど無限に膨大な数が生じる=ない、とは言い切れないのだが。

 

そういうわけでパラレルワールドはきっとないだろうなぁと思ったのだ。

 

2019/5/20追記

記事を書いていた時点で若干の違和感があったが、フィリップ・K・ディックの『時は乱れて』の解説を読んで考えを改めた。

解説に平行宇宙の話が出てきて(その前に本編でも統一場理論とかが出てきていたが)、そこから調べて今さっき多元宇宙論にたどり着いたところだ。

詳細は省く。なぜなら書けるほど理解していないから。

だから記事を消さない理由について書く。

私は微細な違いにより生じる異世界パラレルワールドと考えて記事を書いたが、パラレルワールド(平行宇宙)はもっと広がりを持つ概念だ。

この記事において私が書いたのは、「微細な違いによるパラレルワールド」はないという話である。

 

ただし、これもまた多元宇宙論がらみの話(しかもかじっただけ)だが、どうやら空間は無限らしい。

それなら「微細な違いにより分岐して生じた」訳ではないが、私たちがいる宇宙と微細な違いしか持たない平行宇宙(パラレルワールド)があってもおかしくはない。

 

 

 

 

日記 2019/4/24 青春のイメージは綺麗すぎる

実のところかなり自信を持っていることがひとつある。

それは青春をしているということだ。

 

青春は高校生だとか大学生だとかの特権ではない。年齢や所属では区切れない(だいたい大学生の年齢は幅広い)。そして何より、恋愛や部活動に限ったものでもない。

もっとこう...ぐずぐずしてるものだ、燻ってて、炉で熱されたガラスの橙みたいなイメージ。

そんな名言を昔見つけたので、引き合いに出してやろうかと検索したのですが、上手に検索できませんでした。

 

なんだか最近、青春って、爽やかだったり恋愛だったりのイメージがよく喧伝されている印象。

アオハルってね。

それももちろん素敵だ。でもそれは青春の一面でしかない。しかもかなり表層(な気がする)。

 

本当(一体なにが本当なんだか!)の青春って人生の意味に悶々と悩んだり、燻ったり、そういうものだと感じる。

偉い人の言葉を見たり、いわゆる良本を読んでいるとそんな感じ。

で、私はいつもそんなこと(生きる意味とか、死ぬこととか、これでいいのかとか)ばかりを考えている。

だから青春をしている自信がある。

アオハルはやっておりませんが、青春はしております。と、そういう感じ。

実は誰しも10分後に死ぬ可能性があって、いつ死ぬかわからないこと。なににもなれない可能性があること。理由なき万能感と、それが根拠のない空虚なものだと実はわかっていること。焦燥感。

そういったものを青春と形容して良いのだと、私は先人の言葉から受け取りました。

だから、恋愛とか部活とかそういったものに縁が薄くても、きみも青春してますよ。

元気を出して。というより、実は元気なんて有り余ってんのに注ぐ先がなくて燻ってんだよな、それで疲れてるんだよな、勝手に共感するよ。

という感じ。(架空の青春の人との会話)

 

くすぶって、ぶすぶす言っててどろどろで、きたなくて無知でどうしようもない青春なんて、広告イメージに使えないもんね。だいたいそういうところもいい歳になる頃には、いい具合に美化されてんだ。綺麗に輝いて見えちゃうんだろ。俯瞰できちゃうからね。

 

 

にしても、昨日も今日も、思考に言葉が追いついていない。

思いはタイプする指を待ってくれない(ブラインドタッチが苦手だから尚更)

これじゃ、ダメダメだが、無いよりマシだから今日もログを垂れ流す。

 

 

日記 2019/4/22 本の中の本の話

調子が悪い。

最近どうにも眠たく、眠たく、眠くて仕方がない。

午前中に終わらせるはずの作業は、予想を大きく上回って午後三時すぎに終わった。

 

三時半。作業に伴う外出をする。上着のいらない暖かさだった。

上着がないとどうにも無防備な感がして嫌なのだが、今日は無上着にした。

気温がちょうど良すぎるのだ。肌と外気の境目を見失うほどの適温であった。

 

用事を済ました後、ほんの少し足を伸ばしてカメラのフィルムを購入する。

ついでに本屋に寄った。

エリック・ホッファーの自伝が読みたかったのだ。

エリック・ホッファー自伝ー構想された真実』、お目当はこれだ。

以下に理由を書く。

最近すっかり人生の意味を見失っている(自分で掴み取るものなのだが、その元気もない)ので、先日、久々に書棚から中島義道著の『生きるのも死ぬのもイヤなきみへ』を取り出して読んでいた。

その中で、ホッファーが自殺を試みた頃を回想した部分がお目当本から引用されていたのだ。そしてその引用部分がとても心に引っ掛かった。自分の心情に重なる部分があったのだ。

ホッファーは自殺を試みたが失敗してその後も生きた人間だ。

なので、彼の自殺(未遂)のその後(の考え)について知ることで、私自身の考えに風穴を開けられるのではないか、と思ったのである。

(彼はものすごく波乱万丈な人生を送っている)

 

本屋に着き、本を探すも、なかなか見つからない。

探す途中、面陳列されていた同じくエリック・ホッファーによる『波止場日記』を手に取る。パラ読み(パラパラ読むって意味であって、メタとかパラとかパラグラフとかのパラではない)。

知識人についての色々(ネガティヴなこと)が書いてあるのね、は〜、面白そうだ。

数ページ読む。文章も読みやすいなぁ。

 

だいたいそんな感じ。

しかし、お目当ではないので棚に戻す。

辛抱強く棚差しされた本たちを睨んでいると、やっとお目当を見つけた。

エリック・ホッファー自伝ー構想された真実』を手に取り、目次を開く。

おお、あったあった、自殺について書いた章だ...

お目当本の中のお目当部分だ。ここが見たくて来たんだ。

しかし、目次の中にもう一箇所気になるところがあった。『エセー』について書かれている。(章名の詳細は忘れた)

『エセー』!私が一昨日、古本屋で手に取った『エセー』じゃないか!

そう。そうなのだ。また『エセー』と出会った。

もちろん有名な本なので、こうした形で出会うことはそう珍しくないかもしれない。

しかし、一昨日の古本屋でエセーを手に取った理由もまた、なんがしかの家にある本の中にエセーが出てきていたからなのだ。誰かがエセーはいいぞ、と言っていたんだ。本の中で。(誰の何なんだろう??)

本の中に出てきた本(実在)にまた本の中で出会ったのだ。

私は自殺についての云々をすっかり忘れて、この小さな偶然に心を躍らせた(小躍り程度だ)。

まぁいいじゃないか。どうせ今日の手持ちではお目当本は買えないし。

と、本来の目的の自殺についての部分を読まずに本棚に本を戻す。

(目的を果たすのは買ってからの方がいいだろう)

 

そのあとは、レイ・ブラッドベリの『刺青の男』を見に行った。

これも読みたかった本なのだ。ブラッドベリの作品は、タイトルが素敵だ。(『歌おう!感電するほどの喜びを!』とか素晴らしすぎる。ただこれは、ウォルト・ホイットマンの詩集『草の葉』に所収されている「アダムの子どもたち」内の一編の詩のタイトルから採られているらしい(ウィキ調べ)。もちろん中身も良い)。

去年『華氏451度』を読んでから、波が来ている...SF(ディストピア)の。

(『華氏451度』は新訳版のカバーも素敵だ。三部の最後の方は秋のセンチメンタルっぽい印象。新訳版p176.l10からのフェーバーのセリフが胸に刺さりすぎて付箋が貼ってある。「無知を隠せば、だれにも攻撃されず、何も学ばぬままだ。」勇気をもらった。あとはやたら地下鉄の広告の描写が印象に残っている。またちゃんと読もう...)

しかし、『刺青の男』が読みたかったのはSFづいているせいだけではない。これも去年読んだ(正しくは読みかけの)、稲見一良著の『ダック・コール』のモチーフになっていると知ったからだ。

こちらもパラ読み...と言うか普通に最初の方をチラと読んでみる。

刺青の男の描写が良い。刺青の描写が良い。幻想的でなんとも美しい感じ。

これは欲しい...しかし、今月の手持ちを考えると少し厳しい。

そもそも、読んでない積読本が家にたくさんあるじゃないか...

SFだってフィリップ・K・ディックの『ユービック』(読みかけ)と『いたずらの問題』が積んであるぞ!スタニスワフ・レムの『完全な真空』も読み途中じゃないか!

 

そんな感じで本屋から撤退。帰路に就く。

帰りに鉄塔を写真に撮って帰った。

 

狭いベランダに椅子を出してカート・ヴォネガット・ジュニア著『猫のゆりかご』を少し読み進めて今日はおしまい。

ヴォネガットの短編をまとめた本(おっきい!)も平積みされていたな。

 

以上。