雑記-主客一致に関して 2019/6/5

 

研究が進まない。

というか、進んでいるんだか進んでいないんだかよくわかっていない。

すっかり迷走しているのだが、悪くない気分だ。

最終的には形にしなければならないけど、まだ時間の余裕はあるし、泥沼的思考の中で足掻くのは嫌いではない。

 

進まない理由は明らかで、主客の一致を疑ってしまったからである。

どういうことかというと、私たちは何かを見たり考えたりするが、それは主観を通して行う。言い換えれば、主観を介さずに見たり考えたりはできない。見る、考えるをはじめとする動詞にはそもそも動作主体の存在が内包されている。

つまり、完全な客観など存在しない。

客観も当事者ではない第三者の主観である。(余談その1:しかも第三者的目線ということで、もはや当事者の空想上の客観なことすらある!

余談その2:だからこそ「客」であり、「神」ではないのだななどと思うわけだが)

なんだったら、客観的意見も「私」が訊いた時点で「私」の主観を通ってしまう。

 

...なんてことを考えていたら、あれ?じゃあなんで学問って成立してるんだ?なんて所に行き着いてしまったのだ。(言語もなんで成立しているんだ?ってなった)

そんなこんなで哲学書(ライトなやつ)を読んだり意味論を勉強してみたり、調べたりしている。

その結果としてどうやらこの手の疑問は現象学の範疇にあるらしいことは突き止めた。

言語についてはポストソシュールが参考になるっぽいことを友人に教えてもらった。

 

そして、学問においては、「主客の一致は前提となっている」らしいことも知った。

(とはいえネット上でちらっと見ただけだから、きちんとした出典を見つける必要がある)

 

色々と調べて考えていくと、人間がわかっていないことは結構あるし、科学のような学問も人間の視点で作られたものだから実のところ有用な仮説だなんて思う。

原初に想いを馳せれば、学問を打ち立てる前から世界は存在していたのだし、人間がうまれる前から世界は存在していたのだし、当然といえば当然なのだが。

日々莫大な情報に晒され続けると、こういう謙虚さを失ってしまいそうだ。

有用さは目くらましにもなるな、なんてことを思うのだった。

 

おしまい