パラレルワールドはあると思うか?
私はパラレルワールドは無いと思う。
こないだの散歩でそう判断をした。
そういう話を書く。
(2019/5/20追記:パラレルワールドの有無はやっぱりわからない。
ただし、選択肢ごとに分岐するような在り方ではないだろう。
最後に追記する)
ゴールデンウィーク半ばの話だ。
普段から散歩はするのだが、その時は音や色について勉強をしていて、いつも以上に感性が外へ向かっていた。(普段はかなり内省的な散歩をする)
だから車の音を聞けば、ああ雑音だなと認識を新たにしてうきうきしていた。
(音には単一周波数の音である純音と、複数の周波数でできている複合音があり、後者の中に音程を持つ楽音と持たない雑音がある、ということを直前にテキストで読んだから...)
そんな調子で散歩する私の目を惹いたのは、青々とした緑(不思議な言葉!)だ。
5月といえば新緑の季節で、時候の挨拶にも使われるくらいに新緑の季節だ。
3月末から4月半ばまでの、センチメンタルな雰囲気(主にソメイヨシノのせい)からガラリと方向転換をして、夏の気配がしてくる。
アスファルトの焼ける匂いを思い出させるような深緑。
その緑色は葉緑素のおかげだ、というのは多くの人の知るところだろう。
で、私は葉の細胞に思いを馳せたのだ。
葉は無数の細胞から構成されている。もちろん樹も。ついでに私たちも。
それらの細胞の並びが違かったら?全く同じ細胞たちで構成されているけれど、とある一枚の葉を構成する細胞たちの並び順が違かったら?
私たちはそれを知覚することはないだろう。顕微鏡でも使わない限り。
でも今の世界とは違う世界ということになる。
庭の木の枝の葉の付く位置が1mm違かったら?それもまた別の世界じゃないか?
そう考えると世界の枝分かれはまさに無数。
ありとあらゆるものに関して微細なパラレルが存在してしまい、計算できない。
(数学の確率の話みたいだ。Cを使って計算するやつ。組み合わせだったかな)
普段、パラレルワールドというと、友達が別人になっているとか、いなくなっているとか、街が全く違う風景になっているとか、そういうのを思い浮かべがちだ。
(庭の木の枝の葉の付く位置が1mm違うだけのパラレルワールドの話はきっと退屈だ...少なくともパラレルワールドである、ということは物語の強みにならないだろう)
でもそれは人の視点だ。今と違う世界が分岐し続けるとしたら、その数はあまりにも膨大じゃないか?ただし、ほとんど無限に膨大な数が生じる=ない、とは言い切れないのだが。
そういうわけでパラレルワールドはきっとないだろうなぁと思ったのだ。
2019/5/20追記
記事を書いていた時点で若干の違和感があったが、フィリップ・K・ディックの『時は乱れて』の解説を読んで考えを改めた。
解説に平行宇宙の話が出てきて(その前に本編でも統一場理論とかが出てきていたが)、そこから調べて今さっき多元宇宙論にたどり着いたところだ。
詳細は省く。なぜなら書けるほど理解していないから。
だから記事を消さない理由について書く。
私は微細な違いにより生じる異世界をパラレルワールドと考えて記事を書いたが、パラレルワールド(平行宇宙)はもっと広がりを持つ概念だ。
この記事において私が書いたのは、「微細な違いによるパラレルワールド」はないという話である。
ただし、これもまた多元宇宙論がらみの話(しかもかじっただけ)だが、どうやら空間は無限らしい。
それなら「微細な違いにより分岐して生じた」訳ではないが、私たちがいる宇宙と微細な違いしか持たない平行宇宙(パラレルワールド)があってもおかしくはない。