恋愛についての走り書き

 

生きることは孤独で虚無だ。どう足掻いても。

何をなしてもいずれ死ぬし(今のところ......四半世紀もしないうちにテクノロジーが何か画期的な死なない方法を見出すかもしれないが......しかし、もしも死がなくなったら生は生たりうるのか?二項対立が崩れて死も生も無くなるのかもしれないし、対立せずとも奴らは存在し続けるかもしれない。概念の上で。)、どんなに言葉を尽くしても思いが100%伝わることはない(し、どれくらい伝わっているのか確認する術はない。例えば君の恋人への好きが恋人の君への好きと同じ(程度、種類)である保証などどこにもないのだ)。

 

孤独や虚無、心のあな、退屈、を忘れる埋める変えるぶち壊すための刺激を私たちは(と、大きく括ってみるが責任は持たない)常に求めている。

 

そんな刺激の一種としても恋愛は挙げられるだろう。

 

極論、愛は相手の存在そのものへ向けられるものだと私は思う。

あの人が幸せでいてくれたらそれでいいと思えるのならそれは愛だと思う。

(だがそれは恋愛ともっとも遠い状態に近い気すらする)

 

ただ、孤独や心を蝕む虚無感を忘れるための熱狂する矛先として恋人がいるのなら、私はそれは愛だとは思いたくない。少なくとも相手の存在そのものに対しての愛ではないように思う。

熱狂する先、いわば依存先でしかないのなら、それは愛ではないような。

恋に恋するというか、恋愛状態にあることに価値を見出しているというか......相手そのものに依存しているというタイプのもあるから難しいな(しかし、つまるところ都合がいいというだけなのでは。そうであればそれは「その人がその人であるから好き」ではないのだな)。

しっかり理論立てて説明できないので今日は走り書きでストップである。